5月3日、ポレポレ東中野にて、本作へのコメントもお寄せくださっている、早稲田大学教授、音楽・文芸批評家の小沼純一さんと監督のトークを開催しました。
この映画の感想としていただくことの多い映画のなかの「音」についてが話題の中心でした。「いいドキュメンタリーっていい音がするんです」という小沼さんのひとことから始まったトークの様子をご紹介します。
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小沼
「ひとつの画面のなかでいろんな音を拾っているわけで、水の音があり、虫の音があり、鳥の声があって、それぞれの多層的な時間というか。水が生きている、というのも変ですけれど、水の生きている時間、虫が生きている時間、鳥が生きている時間ってみんな違うじゃないですか。それが重層してひとつところに集まっているというのがすごく面白いですね。そして同時にあらためて見ているわたしの時間も感じるんですよね。映画を通して時間の重層を感じ取れるいうのが、とても意味があることだと思います。」
本橋
「今回の映画の録音の石川(雄三)くんは、映画の現場の仕事は初めてでした。映画の録音はこうだ、という型がないぶん彼の感覚で音を拾っていってくれたんですね。編集の段階であらためて聞いてみると、その音がとてもよくて。で、調子に乗ってCDまで作っちゃいました。『映画に耳を』という、まさに音から映画をみていく本も書いておられる小沼さんだからこそ、この映画をそんな風に見てくださったのだなと思います」
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本橋
「アラヤシキへの道は片道一時間半かかるんだけど、それがタイムトンネルになっているように思うんです」
小沼
「いま、新幹線も速くて、大阪や京都に行っても、「そこだ」という感じがしないんですよね。別なところへ行く、という感覚がいまものすごく欠けてしまっている。この映画のように一歩一歩そこに近づいていくという感覚が、もともとあったんですよね」
本橋
「都会の時間ではその感覚がどんどんなくなってきますよね。季節もそうで、一年中あたりまえのようにトマトが食べられる。真木では夏になってトマトが食卓に出てくると大の男が「おお!トマトだ!」と声を上げる。それがとても印象的でした」
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本橋
「ぼくが最初に映画を撮りたいと思ったのは、チェルノブイリ事故の汚染地に住むアルカジイ・ナボーキンというおじいさんの弾くアコーディオンの音からでした。音が出ないキイもあるし、指も動きにくい。だけどその音がすごく良くて。スチールカメラマンたちが動く画へ憧れるのは音という要素も大きいと思います。残念ながらナボーキンさんはロケハンの合間に亡くなり、彼を撮ることはできなかったのですが、それがきっかけで『ナージャの村』ができました。」
小沼
「音って必ず消えますよね。音楽もそうですが。人の一生もある長さがあって、必ず消える。ほんとによく似ているなと思うんです。ある意味音楽って人の生のメタファーみたいだと思うと、この映画の中でもチェロの演奏が出てきますが、そういうものが聞きたいなあと思います。上手いわけじゃない、そこは必要なくて、でもその人の身体が奏でる音というのはやっぱり別格なんだなあ。」
と結んでくださった小沼さん。終盤、映画の音を収録したCDをバックに
小沼さんが書いてくださった映画評であり、詩でもある本作への言葉を読んでいただきました。
【コラム01】小沼純一さん をご覧下さい。
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