寄せられたことば

■山田洋次(映画監督)

時間がゆったりと流れてゆき、その中で観客は人生について、社会について、更にこの国について想いをめぐらせる。 心を豊かにしてくれる作品です。


■四方田犬彦(比較文化・映画学)

時間は円環をなして廻って行く。「あたかも季節のように」(ジョセフ・ジャーマン)すべては 少しずつ移ろい、また生まれていく。時間に楔を打ち付けるのは、家の二階の窓に掲げられた一枚の木の板だ。

誰もが交替交替に板を叩き、食事の合図をする。板を叩き、板の合図に従うことが、共同体の約束ごとだ。これはフィルムの編集にも似ている。1960年代の終わりから70年代にかけて、アメリカでヒッピーたちが山中に共同体を築き上げたころ、このフィルムの舞台となるアラヤシキの共同体は開始された。この作品は社会学の興味深いドキュメンタリーであると同時に、時間の分節をめぐる人間の認識のドキュメントでもある。


■湯浅誠(社会活動家・法政大学教授)

社会はアカの他人たちで構成されている。
だからまとめあげるためにはシンボルがいる。
ナショナリズムとか成功の記憶とか。
でも、他のあり方はないんだろうか。
まとめあげるでもなく、ばらばらに分解するのでもなく。
たとえば「暮らし」でつながるとか…。
圧倒的な映像美の中、そんなことを夢想させてくれる映画だ。


■今野勉(テレビ演出家)

奇跡の「風景」

山地で暮らすアラヤシキの住人たちの日常が、周囲の自然と同じように、「風景」として描かれています。人々の暮らしのたたずまいが風景のようにそこにあることをみるのは、奇跡をみるようなものです。この映画は、奇跡の「風景」を撮ることに成功したようです。


■小沼純一(早稲田大学教授、音楽・文芸批評)

水の、虫の、鳥の まじりあってひとつとなったひびきに、効率ではなく、自然界の時間があらわれている。いや、自然=時間が、みているわたし・わたしたちと併走している。画面をみているものは街のどこかの闇のなかにいて、映画のなかの人たちは陽の射す、孤立した学舎の近くにいる。
おたまじゃくしの、子どもたちが息を五右衛門風呂にもぐっていられる、水流の異なった川の、ゆっくりと、ながれる、経っている時間、多くの異なった。
田圃に植えられる小さな稲。黄色くなった稲。刈りとられて干される稲。この時間。
本橋成一は時間のながれを撮る。時間のながれのなかにある人を、人のすこしずつの変化を、撮る。


■芹沢俊介(社会評論家)

「アラヤシキの住人たち」を観て

「ある being」。安心して安定的に自分が自分であっていいという存在感覚のことだ。「ある」は、一緒の誰かとともに育まれる。誰でもいい誰かとでなく、その人にとっての特定特別の誰か。そして「ある」は「する doing」に優先しなければならない。このウィニコットの考えを基底に据えながら、養育論を構想してきた。
アラヤシキの暮らしにはそのような「ある」を最優先にする思想があると思った。映画は、アラヤシキという場を、輪廻する悠久の時間を骨格とする、厳しくも美しい自然の姿として写し撮った。映像の思想詩が生まれた!


■小林政広(映画監督)

山奥のかつての集落。と言っても二三軒なのだが、そこに移り住んだらしい一見欠点だらけの人間たち。時には口論ともなるが、出戻った青年にも優しい。ここにあるのは田舎の生活だが、クソ田舎のクソ根性がない。それがいま、貴重であり、素晴らしく思えた。


■諏訪敦(画家)

単調さが支配する日常描写の中で、住人たちが感情を露わにする瞬間が、わずかにあった。
それは福音書の「放蕩息子の帰還」を思い出させるエピソードだったが、
そう予言されていたかのように出来事は回収される。
そして僕は “誰もが認め合う” という家の姿を眺めながら、
「このような世界に住めるだろうか」と自問してしまった。


■新井英夫(体奏家・ダンスアーティスト)

ワークショップをしていた縁で児童養護施設の子どもたちの合宿に連れ添って、
映画の舞台となる真木共働学舎の集落を2年前のコールデンウィークに山越え谷越え訪ねた。
ふだんは都市部の施設で暮らす「生きづらさ」を抱えた子どもたちが、からだの底から元気になった笑顔を思い出した。
ここの自然と暮らしの持つ奥行きを一年の流れで映画として観ることで、そのチカラの理由がわかった気がする。
大きく豊かな自然の移ろいに抱かれ、年齢や経歴や障碍の有無を越えて、
絶妙な距離感とユーモアを保ちながら共に生きる人たち。
一つに束ねようとしない、ちょうどいい「みな他人」の心地良さ。
ここに古くて新しい人類の暮らし方のヒントがあるように思う。
映像だけでなく、多彩な音の叙景詩としても楽しめる映画。

■石井彰(放送作家)

この映画は、現在のテレビドキュメンタリーのほととんどが陥っている「わかりやすい病」から、遠く離れた潔いドキュメンタリーだ。アップが多用される映像、饒舌すぎるナレーション、画面を汚すスーパー、感情を誘導する音楽や効果音とはことごとく無縁だ。
だから「わかりやすい病」に慣らされた私たちが見ると「わかりにくい」。つい不親切だな、とさえ感じてしまう。そう感じることが、既に「わかりやすい病」患者の証しだ。
けれど、ちょっと我慢して見続けていると、あら不思議、観客はアラヤシキに「ふと迷いこんだまれびと」のように、あの場所にいて、住人たちの暮らしを見つめている。
この映画は、安易な理解や安直なレッテル貼りを巧みに避けながら、まず見ること、そして見つめること、の大切さに気づかさせてくれる。
わかろうとすることで「わかったふり」を招く、わかりやすいテレビドキュメンタリーの世界で働くものの一人として、ある種の苦い思いを持ちながら、多くのことに気づかされる、かけがえのない作品だ。見つめることで多くのことを感じさせ思索させてくれる。
「わかりやすい病」重症患者のテレビ制作者はもちろんのこと、いつのまにか「わかりやすい病」にかかっている、多くの視聴者、つまりあなたにも、ぜひ見てほしい。

■石井仁志(20世紀メディア評論、 メディアプロデューサー)

不平等を大きく包み込む平等精神。
不寛容をも許容する寛容。
競争や戦いを求めぬいのちの尊厳。
そういったことをたんたんと見ました。
ああ、わたくしの幼少年期に
あの風景、あのひとびとがいたなあと、
春先の風にかやぶき屋根が呼吸して
ふきあがる湯気のにおいは、
人間のいとなみのかぐわしさをふくんで、
胸にせまってきます。
今こそ、地球に必要なヒトの行為が、
ここに映っています。


■清水浩之(映画祭コーディネーター)

「滞在時間117分」で山籠りライフを味わう滞在型映画。いがらしみきお系の住人がただただ働きメシを食う一年間は、この星で何万年も繰り返されてきた時間の缶詰。ノアの方舟を記念撮影したみたいな「動くアルバム」。スクリーンの真ん前で見れば3Dだ!


■moro(『ぎゅっと抱きしめたい』著者)

「現代の日本にこのようなゆったりとした時の流れの中で生活をしている方たちがいることを知り、まるでタイムスリップをしたような、不思議な感覚がありました。生きにくさを抱えている人や様々な人達が力を合わせていきいきと生活している姿が素敵だなと思います。農作業中に突然歌を歌い出す男性。突然の歌にもかかわらず、そこにいる人たちは驚くことなく、普段通りに自然の中時が流れていく。自然の懐に抱かれて、無理なく支え合いながらの暮らしが丁寧に描かれていると思いま す。稲刈り時のおやつ、何だったんでしょう。皆さん本当に美味しそうに楽しく食べていらっしゃったのがとても印象に残りました。


■槌田劭(使い捨て時代を考える会 相談役)

この映画の登場人物のちょっとしたしぐさに共感の笑いがおこる。 そういう空間を作り出すことが必要なのではないか 映画を見ることと見る場所そのものを考えさせられる映画である。


■河野アミ(編集者・ライター)

「ナージャの村」「アレクセイと泉」の本橋監督作ということでとても楽しみに拝見いたしました。
共働学舎の存在はこの作品で初めて知ったのですが、「競争社会よりも協力社会」とのモットーや他者の尊重や寛容さなどがいよいよ重要な時代に差し掛かっていることを映画を観ながら改めて感じました。
賃金を代償とする労働に生きがいを見出すのがどんどん難しくなるだろうと言われるなかで、なぜ生きるのか?を自問する人は今後、確実に増えるように思います。
そんな中では「アラヤシキの住人たち」のような作品が大きなヒントを与えてくれる・・・ そう思いました。


■田中正子(音声ガイドモニター)

雪解け水が流れ出す音、鳥たちの囀り、虫の声、雪道を歩く足音…。田んぼの作業ってそうそうこんな音がしてた。とにかく、この映画からあふれ出す音たちが素晴らしいのです。私の故郷にもこういう豊かな音が満ちていたっけ!と、懐かしさと愛おしさで泣けてきました。


■キリスト教関係者試写会にて

ありのままをありのままに受け入れ合って生きる中で生まれる
ありのままの関わりがそのままゆるしといやしの関わりになっていることに感動しました。
又、人々の生活そのものが周囲の自然と溶け合いここにも自然とのありのままの関わりを感じました。


イントロダクション 舞台背景 監督からのメッセージ スタッフ紹介
映画『アラヤシキの住人たち』
オフィシャルサイト
Presented by POLEPOLETIMES.