5月4日、ポレポレ東中野にて、批評家で立教大学教授の前田英樹さんと監督のトークを開催しました。
前田先生とは呑み仲間でして…と紹介する本橋監督に 10年くらいのおつきあいですね。呑むときばっかりなのですが…と前田さん。おふたりともあらたまった舞台上で照れくさそうなトークの幕開けでした。その一部をご紹介いたします。
前田
「本橋さんの映画は『ナージャの村』にしても『アレクセイと泉』にしても、人為を超えたものが働いている作品だと思うのですが、今回の『アラヤシキの住人たち』は映画そのものというより撮られている場所そのものが人為を超えた力で成立している。それを本橋さんが敏感に撮ってらっしゃって、『アレクセイ』などとはまた違う形で本橋さんというものがよく出ている作品だと思いますね。今回の映画、アラヤシキにはたくさん人が住んでいますが、エノさんやミズホさんなど特に中心に据えている人は、どのように選んでいるのでしょうか」
本橋
「ぼくが選んだというより、あそこの生活の中ではあのふたりがダントツに主役なんですよね。一昨日まで舞台挨拶で彼らが来ていたのですが、エノさんに“本橋さん、次は麓の立屋共働学舎の映画を撮ってよ。そしたらオレ麓に降りるから”とすっかりその気になっていました・笑」
前田
「どこまで真面目なんだか、ふざけているんだか、ちっともわからないというところがまた、独特ですよね」
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前田
「本当の暦というのがあそこにはあると感じます。現代の大量生産、大量消費が私たちから奪っていったものですよね。彼らもそうですが、昔の村は衣食住の独立が基本でしたよね。一緒に労働する共同生活、というのが村や家の目的だった。モノを生産してそのなかで、人間が独立して生きていけるためのもの。ぼくらは個人主義者になって、街中でひとりで勝手にやっているつもりだけど、電気が止まったらもう生きられない。機械が壊れても直す力もないし、パソコンが壊れたらもうお手上げなわけですよね。モノに依存して独立性を失って、いちばん大事にすべき人間として独立して生きているっていう自信と、自然の中に自分たちはあるんだっていう感謝という根本をなくしている、ということにこの映画を見ていると気が付きますね」
本橋
「彼らも新しいものに、無関心というわけでは決してないんですけどね。5年前くらいから通っているんですが、あそこでも最近ではみんながスマホを持っているんですよ。百葉箱の当番のクニさんに天気を聞くわけなんですが、そうするとクニさんはスマホで明日の天気を調べるんです・笑。それで“明日は雨だな”とか言う。みんな持っているんだから自分で調べればいいようなものなのですが、彼らにとってはクニさんあってのスマホなのかな、と思ったりね」
前田
「あそこにいる人たちは何も知らないわけじゃなく、どこかで都会生活に傷ついた人たちなわけでしょう。決して素朴な昔堅気な人たちではないですよね。そういう人たちがそれぞれ自覚を持ちながらあの生活をお互い維持している。本当の人間の独立、自立ってなんだろうっていうことを学んでいるんでしょうね、きっと。昔の家族っていうのはああいうもので、労働するために連帯し、それぞれが役割を持って、みんなが肯定されている。映画のなかでリョウマくんがアラヤシキを去っていくことをどうしてみんなが悲しむのかというと、共同して生きて、働いてきて、なくてはならない人になっている。そういうところから生まれてくる絆っていうのは大きくて、都会人が忘れてしまっているようなものなんですよね」
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前田
「文部科学省は最近しきりに「スーパーグローバリズム」なんて言って、資本主義のなか、国境を越えて勝ち残る競争をすすめて、そういうもののために教育が変えられ、曲げられている。共働学舎の創設者、宮嶋眞一郎さんがかつて教師をしていた、本橋さんの母校でもある自由学園の理念は働くことのなかにしか教育はない、というものですよね。手で道具を使い、モノに直に触れて、自然やモノの側から教えられていくのが教育なんだ、という。労働から切り離して教育だなんて絵空事、近代の妄想ですよね。精神の独立も、技も持っていない、そういう人間たちの競争社会が学校で作り出されているっていう」
本橋
「ぼくは自由学園で勉強はちっともしなかったけど、さんざん労働させられましたね。そこで知識ではなく、知恵をたくさん身につけたと思います。出来の悪い生徒は気になるのか、宮嶋眞一郎先生は卒業後もよく気にかけて、ぼくの撮った写真や映画を見てくれました。じつはこの映画の公開直前、4月27日に宮嶋先生は亡くなってしまって、映画を見てもらえなかったことが本当に心残りなのですが、こうやって今日もたくさんの方々に見ていただき、映画を通じて宮嶋先生の、共働学舎の夢をみなさんのなかで想像して、膨らませてもらえるかな、というのはとても嬉しく思っています」
前田
「宮嶋眞一郎さんの思想は理屈ではなく、あそこの人たちの暮らしの隅々に浸透していますね。自由学園の創設者や、宮嶋眞一郎さんが影響を受けて来た内村鑑三の流れの日本のキリスト教プロテスタントの思想と、日本の延喜式祝詞のなかに現れている思想とは見事に合致していて。映画も田植えから始まってまた田植えで終わるひとつの循環を描いていますが、循環のなかにある摂理、米を作るときの堆肥を自分たちの排泄物から作る、食べたものを自然にかえして、循環させる。その循環がのなかに生きることが、いかにいい生き方であるか、 決して争わない、協力し合うという生き方が深いものであるか。息子である宮嶋信さんは映画のなかではほとんど語りませんが、それをしっかり腹におさめて生きておられるというのがありありと分かりますね。本橋さんはなんでもなく普通に生きている人たちの中にある、例えようもないひとつの神秘っていうのか、尊さをいつも撮っていると思います。それが本橋さんの映画や写真の狙いですよね?普通の人間の中に神を現れさせる…?」
本橋
「いやいや、そんな。そんな大それたことではないです。写真で神様は写せませんよ。前田先生なら写せますけどもね・笑」
アラヤシキの人々をきっかけに、変わってきてしまった暮らしや、現代の教育にまで思いを馳せるひとときでした。ご来場の皆様、ありがとうございました。