【トークレポート05】福澤和雄さん

5月13日、共働学舎全体の理事長をされている福澤和雄さんをゲストに迎え、共働学舎の立ち上げ当時の話や共働学舎の理念について話していただきました。

本橋
「福澤さんは、宮嶋眞一郎先生が自由学園をお辞めになってから、ずっと一緒に共働学舎を立ち上げたわけですが、先生の志すものに一番近くにおられたので、そういうお話を伺いたいと思います。自由学園では『教育は不便なるがよし』と聞かされましたが、それが共働学舎にそのまま残っていると思うんです。世の中どんどん便利になってきていますが、質素な生活の中で、知恵を出し合って暮らすという形を求めて、宮嶋先生は共働学舎を作り上げたのだろうと思います。」

福澤
「宮嶋さんは50歳で学校を辞めたのですが、長野県で下準備を約一年間、一緒にやりました。
私は、日本橋の生まれなもんですから、自然に飢えてまして、田舎で暮らせるならどこでも、というくらいの思いで、一緒にスタートしました。長野県小谷というのは、眞一郎先生の郷里なんです。何年か前にこどもたちと一緒に作った小さな山小屋を作ってあったので、そこを拠点にしました。正式に始まる前の年の夏に、ある養護学校の生徒さん5~6名と一緒に短期で生活をしてみました。口で言うのと実際にやるのとでは違うだろうからということで。」

本橋
「寧楽の基本を立ち上げられたころ、ぼくはちょくちょく伺っていました。最初行ったら『豚が逃げたんです』って言われ、探したら、豚が山の中に穴を掘って、こどもを生んでた。それが今や豚が200~300頭いてね。福澤さんを信用しないわけではないんですが、一番信用できると思うのは、豚がおいしいんです。笑
職場でもみんなで注文したり、友人のシェフが『これは本物だ』といって、毎月5㎏くらい頼んだり。
それでやっぱり福澤さんはすごいんだな、と。」
福澤
「寧楽の場合は、バブルの時代だったんです。空いている土地がない時代で、結局、開拓には入れたのは、山です。たまたま、友の会員の方が、寧楽という田舎に雑木林があるから、そこならいいよと言われて。じゃあ、山の中で飼えるものはなんだ、ということになりました。事業ということではなく、生きるのに必要なのはなにかを考えて、豚を飼いはじめました。で、豚のために掘立小屋を作っても、案の定自由に出て行ってしまうんですよ。エサで釣っても戻ってこなくて、山でこどもを産んでしまった。一週間後、親豚先頭に、ウリ坊7頭が続いて小屋に帰ってきました。笑
生存能力だけはつきましたね。たまに東京に来て、お濠なんか見ると 『あの辺の緑だと住みやすいな』とか考えてます 笑」
本橋
「寧楽は真木のあとですよね。真木、立屋の共働学舎の設立のころは、宮嶋先生とご一緒にされていたんでしょ?」
福澤
「ご一緒していた一年間の準備のときは、解体したり増築したりね。水は必要なので、上からひっぱるんですが、古い村ですから、水に関してはとてもみんな敏感なんです。代々、水のことで争ってきている。ホースをひいてきても鉈で切られることもありました。最初は、たとえ眞一郎さんの郷里であっても、そのへんは難しいところでした。
でも、眞一郎さんの魅力で、一緒に働こうという若者がたくさんいて、理念とかわからなくても、わいわいがやがやしてました。周りの村の人達は『共働学舎』を『狂って動いて、楽しむ者』ってあだ名をつけたんです。笑
揶揄だったかもしれないけれど、うれしいですよ。『楽しむ者』ですよ。本当に楽しんでました。」

 * * *
本橋
「そんなに金を蓄えて始めたわけではないですよね。公のお金は一切お金をもらわないという話でしたね。」
福澤
「眞一郎さんは『絶対もらわない、必要なものは神様がくれる』というわけです。でも今になって、わかります。公のお金、くれったってくれないですよ。申請するには『定員何名、スタッフ何名、建物の安全性』なんていうね、そういうものから全部ずれてましたから、くれないですよね 笑」
本橋
「その分だけ、多くの方から共感を得て、お金が集まってきたんでしょう?」
福澤
「まあ、たくさんではないけれど。笑
『共働学舎の構想』というものをガリ版で刷って、眞一郎さんの知人友人に配ったら、見た方には訴えるものがあったらしくて。でも、眞一郎さんは敬虔なクリスチャンだから『必要なものは神様が』と言いつつも、現実はね。やっぱりお金のことは悩みだったと思います。」

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本橋
「寧楽のほかの共働学舎は、映画でご覧になった真木、望さんがされている新得などがあるわけですが。」
福澤
「寧楽の翌年、新得共働学舎が開設されました。長男の望さんは、ウィスコンシン州で酪農を修行されてきていて、今、日本のチーズ界をリードしていますね。
共働学舎の特徴は『これほどそれぞれがいろんな考え方を持っているところはない』ということかもしれません。
もともと自由学園を眞一郎先生が辞めたのは、僕の解釈でもあるんですが。
学校にいると、学校の宿命である成績をつけないといけない、学校だから規則があり、それを破る学生がいる。
でもキリスト者の立場から言うと、上等な人間はほうっておいても上等になる、そこにひっからない人間にこそ目をかけるというのが、使命ではないかという気持ちがあって、その矛盾にさいなまれたと思うんです。

自由学園は、新入生を「同志同学同行の友 として迎える』と言います。こんな学校ないですよ。
共働学舎もいわゆる福祉施設ではない。映画に出てくるエノさんもぼくらにとっては友達なんです。だから本気で怒るときもあります。むこうも物を投げてくることもある。指導ではなく友としての意見なんです。ぼくらにとって、彼らは同志なんです。自由になるための同志。
最初の10年間は問題の連続でした。暴力事件は起きる。包丁持ち出してくるやつもいる。でも、こっちが妙な偏見、妙な『こうでなきゃいけない』という信念、単に『これが正しい』という気持ちだけで、相手を慮らないで切っていってしまうと、切られたほうは、うめくしかない。
すごく大変なことだったけれど、精神的に向上させてくれました。だからひとつの『学校』だと思う。これを眞一郎先生は目指したかったのではないでしょうか。」

 * * *
福澤
「僕は12歳のころから眞一郎さんを50年以上見てきました。眞一郎さんが充実して元気なころから、だんだん老いていくところを見てきて良かったなと思ってるんです。人間らしい人間だった。人間だけでは限界があって、そこにいつも神様の声をなんとか聞こうとしていた。一方、家族愛、感情には非常に激しいものを持ってられた。そういうふうに人間として生きていくということが大事だなと思って。

協力と同時に大事なのは受け入れていくことですよね。これは、口で言うほど簡単ではないんだけれど。24時間一緒にいるつらさもあるけれど、24時間一緒にいない見えないこともあって。
エノさんなんて、わがままでどうにもならないやつだけど、ずっと一緒にいると彼の光るところ、私たちには届かないところがあるんです。だから本当に大好きなんです、彼のこと。好きになっちゃうんですよね。共働学舎に来る人たちって問題はたくさんあるけれど、かわいい、愛おしいと思います。」

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映画『アラヤシキの住人たち』
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