大人たちがラジオ体操をしている。
まわりには雪がまだ残っている。
ヤギの親子を連れて山道を歩いてゆく。
カウベルがすこしだが、ずっとなりつづけている。
ひびいている音がある。
シーンが変われば音が変わる。
もし眼をつぶっていても、この、音の質感で画面が切り替わったことを気づける。
ドローンのようにひびいている音。
水の、虫の、鳥の まじりあってひとつとなったひびきに、
効率ではなく、自然界の時間があらわれている。
いや、自然=時間が、みているわたし・わたしたちと併走している。
画面をみているものは街のどこかの闇のなかにいて、
映画のなかの人たちは陽の射す、孤立した学舎の近くにいる。
おたまじゃくしの、子どもたちが息を五右衛門風呂にもぐっていられる、
水流の異なった川の、ゆっくりと、ながれる、経っている時間、多くの異なった。
田圃に植えられる小さな稲。黄色くなった稲。刈りとられて干される稲。この時間。
ひとの作業を待っている、土を掘りかえす、杭をうつ時間、と、ちから。
器具をふりあげ、ふりおろす、その重さ、重力のままにおちてくること。
雪がつもり、雪をかき、屋根からおろす。
フィクショナルな映画のなかでの多くの労働のシーンが、たった1人や2人の、
むしろ日常的な生活のなかでの、器具の持ち上げ・振り下ろすシーンの前で色あせる。
演技、ではなく、からだそのもの、の。
お湯が沸く。
お湯をわかす火。
畝からかきだされる水。
ゆれる洗濯物。
夕立のつよい雨。
荒い水流。
雷。
モノたちは、さまざまな反応として、うごく。
うごいている。
ヤギが妊娠する。
オスがメスを追っているさまをカメラは追っていたことを、わたしたちは想いだす。
メスはちょっと迷惑そうに、オスに無関心に移動してゆき、オスはそのあとをなにくれとなく追っていたのを。
映画の冒頭に映っていた親子3匹が、子が売られ、2匹になり、というのを、あらためて。
そしてヤギに子どもが生まれる。
1時間もしないうちに自分で乳を探しあてる子。
この学舎でヤギとおなじ頃に生まれたヒトの子。
ふたつのいのち。
この差のなさ。
映像としてもいのちとしても。
ギターでリズムをとる時間。
2つのチェロのゆったりした音楽。
オルガンで伴奏する《きよしこのよる》。
山を歩くとき、腰につけた鈴の音。
食事を知らせる板を叩く回数。
結婚のセレモニーのあいだで披露される謡。
アラヤシキの人たちのことばは、
映画のために、撮られるために語られ、話されているわけではないから、
文脈も意味も発音も、よくわからない。わからないままで過ぎてゆく。
はじめは意味を追おうとするが、
そのうち、意味を追うとか追わないとかではなく、単純に慣れてゆく。
意味がわかるわけではないが、それがそのままあることに慣れてゆく。
1回だけ、住人たちの何人かがすこし長めに、コミュニティのあり方について、
長く語り合うシーンがある。
それだけで、浮かびあがってくるアラヤシキの空気。
「人間、ともに生きよう」ということば。
映画は117分。
アラヤシキですごしている時間、撮影している時間はどれくらいだったか。
そして、ここの人たちのそばにいて、特に気にはされないようになるまでには。
映画、と、人が生きる・生活する時間、と。
人が一瞬一瞬おこなっているひとつひとつのことに名があったりなかったりする。
ことばはそれをひとつらなりにまとめて名づけ、ときに細部を捨象する。
映像は、だが、持続のなかでとらえ、こうやってひとつながりになっていると気づかせてくれる。
ましてやそれがドキュメンタリーであればなおのこと。
本橋成一は時間のながれを撮る。
時間のながれのなかにある人を、人のすこしずつの変化を、撮る。
アラヤシキはもちろん、チェルノブイリやアフリカや沖縄や、
みてきたドキュメンタリーとともに、
いまもまた、
そしてまだ、
制作途中の映像が、
生活が、いくつもあるのだろう、
本橋さんのアタマのなかに、
その工房のなかに。
アラヤシキを阿頼耶識と変換していいものやらわるいものやら、
いまだに行ったり来たり。
それがまたおもしろいのだけれど。
◆小沼純一(早稲田大学教授 音楽・文芸批評)